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アンカー 1

​社史

Company history

​当社の動き

世の中の動き

​髙倉慶治「タカラ商会」創設

東京都千代田区北神保町に於いて天幕、雨覆、帆布製品の製造開始

タカラ商会の名前は、髙倉商会というよりもタカクラの四文字からク(苦)を抜いてタカラ( 宝の意味もある)商会としたほうがはるかにスマートと思い、心に決めておいた名称だった

事業拡大の為、千代田区神田神保町に店舗を移転

新たに衣服部、染工部、鉄工部、製旗部を増設

テント、白除帆布製品の製造販売開始、各デパート御用達

戦時中は、流し旗やのぼり、腕章、作業服の仕事も多く入ってきた

旧社屋(昭和30年頃).jpg

旧社屋

タカラシート.jpg

自転車はこの時代、交通手段やビジネスに於いて需要が高まり雨傘や 雨合羽を販売しながら慶次は、晴雨気にせずに自転車の使用を可能に した《タカラ式ハンドルシート》を発明し爆発的ヒットとなる

東京都荒川区に縫製工場を設け、作業服の大量生産を開始

終戦後、慶治、栄一、兄弟相携えて、駐留軍関係の工事を主体として業務再開 主として、カーテン、日除け、椅子カバー、懸垂幕、広告旗等を製造して販売。 懸垂幕に捺染方式を採用量産化を図る

3月 有限会社タカラ商会を株式会社タカラ商会に改める

    室内装飾及びステージ幕、舞台装置部を新設

髙倉栄一独立

東京都池袋に有限会社池袋タカラ商会として発足

池袋タカラ商会.jpg

第1回東京モーターショー会場施工 (当初会場は日比谷公園にて)

東京天幕雨覆商工組合の設立に深く関わる 二代目理事長としても辣腕をふるう

縫製業務拡大の為、台東区浅草の工場に協力を依頼

小田急百貨店開店に伴う懸垂幕掲出装置ガイドレールシステム1号機を設計施工

以後大型デパートにガイドレールシステムの採用が始まる

捺染の進歩は懸垂幕の需要を一段と進め新しい接着剤やアップリケ方式もさらに進んだ

独特の製法により現在の東京タカラ商会の懸垂幕技術に近づいてきた

またその頃、布地にカラー印刷が可能になり〈NECO 印刷〉懸垂幕の新しい試みにより技術、製法が飛躍的に変化していった

2月 株式会社タカラ商会と株式会社池袋タカラ商会が合併し、池袋に本社社屋を建設。

社長に髙倉慶治、副社長に髙倉栄一、専務に髙倉義征の新体制のもと

株式会社東京タカラ商会として新たに発足する

昭和44.2.01落成式.jpg
現本社社屋.jpg

東京タカラ商会 本社新社屋

ガイドレールシステムの各種実用新案特許を得る

業務拡大に伴い、練馬工場新設

縫製業務の拡大を図る

懸垂幕アルミガイドレールシステム開発、販売開始

懸垂幕アップリケ方式に大型ヒートプレス機導入

練馬工場.jpg

練馬工場

6月 懸垂幕支持構造の実用新案登録される

2月 懸垂幕及び弛み除去装置 実用新案登録

12月ザ・レーザー株式会社を設立

東京タカラ商会のグループ会社として、社長 髙倉義征が兼務

銀座4丁目に於いて日本初の本格的レーザースキャンに成功し

従来の東京タカラ商会のイメージを大きく変えた

その後、テレビ歌謡番組のスタジオ演出においてレーザー光線演出の専属となる

豊島区東池袋に地上3階、地下1階の別館新築

テント縫製、装飾加工の拡大を図る

別館.jpg

1919

大正8年

1930

昭和5年

1939

昭和14年

1945

昭和20年

1949

昭和24年

1953

昭和28年

1958

昭和33年

1963

昭和38年

1969

昭和44年

1973

昭和48年

1977

昭和52年

1978

昭和53年

1980

昭和55年

パリ講和会議(第一次世界大戦の講和条約決定会議) 朝鮮で三一独立運動、日本の支配から独立を求める

ロンドン海軍軍縮会議が開かれる

​地下鉄銀座線の上野駅一万世駅までが開通する

9月 第二次世界大戦開戦

3月 東京大空襲

8月 広島、長崎に原爆投下

9月 第二次世界大戦終結

2月 NHKテレビ放送を開始する

12月 1万円札発行

   東京タワー完成

部分的核実験停止条約

1964年(昭和39年)

   東京オリンピック開催

1月 東大安田講堂事件

7月 アポロ11号が人類初月面着陸

第二次オイルショック

5月 成田空港開港

8月 日中平和友好条約を締結

東京タカラ商会 別館

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